自己紹介 2024年版

はじめまして、ずーしみです。
現在はアメリカのボストンでリチウム電池のスタートアップで研究者として働いています。

このブログは2012年にスウェーデンの大学への交換留学を機に、自分の経験を書く共有する場として立ち上げました。ブログを書き始めてかなりの時間が経ったので改めて自己紹介でもしようと思います。

来歴

出身

埼玉県の都会と田舎の中間みたいなところで育つ。両親は市役所勤務で、海外駐在や転勤などはなかった。

小中学校時代

私立などの選択肢はなく、地元の市立小学校と中学校に行く。中学では部活でしごかれすぎて、現在につながる軽いトラウマになる。勉強では、中一の初めての定期試験で、いきなり学年一位になり、この成功体験がいい意味でも悪い意味でも現在までつながる。

高校時代

学区で一番上位の公立高校に行く。中学での反動から部活はまったりなものを選択、それなりに楽しかった。勉強も最初は地区のトップの学生が集まると思い気おくれしたが、しばらくして上位10%に入るようになる。高3のときに赴任してきた英語の先生に東大を進められ、英作文の指導を受ける。これが初めての英作文で大してよくなかったが、いろいろほめてもらったせいか自信になった。結果的に東大に行く総合力はなく、浪人を覚悟したが、現役で国立大の物理学科に滑り込む。物理学科を選んだ理由は当時のドラマ「ガリレオ」と募集定員が理学部の中で一番多かったから。もちろん物理は好きだったけど。のちの成績開示で、120人ほどの合格者の中で真ん中あたりだったことがわかる。

大学学部時代

適当な理由で入った学部だったが、入学初日から他の学生のやる気と熱意にビビる(のちに多くの学生がやる気をなくしていたが)。一般的な学生と同じように学業はそこそこに、サークルやその飲み会、バイトなどをエンジョイする。ただ授業はサボったことないのが誇り。
3年生の専門授業が本格的に始まったころから、物理を真剣に学び始める。好きな教科書はGriffithの量子力学の教科書。物理学科の友人の勧めで自主勉で読んでいた。学生実験も本格化し、一番好きだった実験はホログラフィーの実験(サイコロが立体的に浮かび上がって見えたのは感動)。
4年生から研究室配属。といっても最初の半年は、院試の準備と基礎的な実験のみ。この時期に衝撃的な出来事が2つ起こる。一つ目は上述した物理学科の友人がドイツに交換留学に行ったこと。2つ目は、院試勉強の息抜きに廊下をぶらぶらしていたら「海外インターンシップ募集」のチラシを学部の国際課オフィスの前で発見したこと。ここで一気に「海外に行きたい」という気持ちが芽生えた。特に自分以外の金で。結果的にインターンの選考は落ちてしまうが、その年にできた奨学金付き交換留学のプログラムを紹介してもらう。4年生のタイミングでの応募だと実際の留学は大学院の1年の夏からになるので、それを許してもらえる研究室に移籍し、粛々と準備しつつ卒業実験をする。このころのTOEICスコアは630くらい。

大学院修士時代

研究室は学部4年後期から在籍していたため変更なし。夏からスウェーデンに交換留学に行く。これが初海外で、初めての飛行機で英語が全く分からず絶望したことを覚えている。スウェーデンの研究室に所属し、ポスドクの手伝いがてら、自身の修士の研究テーマに関して勉強する。ここでは、「研究」という今まで勉強して培ったきたことが「金」につながるということを初めて実感した(日本の学生は基本的に無給だが、スウェーデンでは給料が出る)。さらに、研究以外でいうと、他大学出身の日本人と知り合えたことが一番の収穫。同じように学部後期や修士レベルで交換留学で来ており、一緒に食事や旅行を楽しんだ。帰国後も数回会ったが、自大学の友人以上に多様な進路に進んでおり、それが自身のその後の進路に多大な影響を及ぼした。

1年の交換留学を終えて帰国すると、その年の就活はほぼ終わっていたので結局1年留年した。留学生向けの就活イベントなどもあったが、じっくり会社を選びたかったのと帰国後の修士の研究がかなり行き詰っていたため。なので、大学院修士にはトータルで3年所属した。このころのTOEICスコアは880くらい。

日本会社員時代

大学院修士修了後、自動車メーカーに勤務する。入って初日に、またしても同期の自動車への熱意にビビる。私は、自動車への熱意はそこまでないが、先端研究で得た技術を自動車というプラットフォームに搭載したい、と面接で言ったので。。。
最初の1週間はホテルに缶詰めで基礎的な研修、その後の2か月はディーラー研修、その後半年は組み立て工場研修。あと、研修では多くの方にお世話になり、その点では感謝している。が、本配属が決まったのが入社してから8か月後であったことに違和感を覚える。せっかく熱意をもって入社したのに、それを冷めさせてまで一律的な研修をする会社の教育システムには疑問が残る。しかもそれが伝統として何十年以上も同じように行われている。

結局、3年とちょっとしたのち、海外留学時代が忘れられずに会社を辞めて留学を決意する。会社員時代のことは残念ながらここには書けないが、理解ある上司のもと多種多様な仕事を経験させてもらえた。留学に発つ日の空港に見送りに来てもらったり、一時帰国中に食事に行ったりと関係は良好です。このころのTOEFL iBTスコアは94(限界)

アメリカPhD時代

天国のようなサンディエゴの天気の下、地獄のようなPhD時代を過ごす。会社を辞めたのち、カリフォルニア大学サンディエゴ校のナノエンジニアリングの博士課程に進学した。5年間の博士課程はきつかった。研究者としての成果だけでなく、アメリカの滞在許可含めたすべての責任が自分自身にかかるのが本当にしんどかった。また、コロナ含めメンタルへの負担が大きかった。研究テーマは、(次世代)リチウムイオン電池の材料研究。PhD自体は取りたいと思っていたので進学したことに後悔はない。また、修士のときの交換留学と同様に、研究室内外で多くの友人に恵まれた。日本と違い博士課程に在籍している人が多く、年齢もばらばらで上下関係もないので多くの知り合いができた。また、同じような境遇の、アメリカで学ぶ日本人の学生とも知り合いになれた。正直周囲の人の助けがなければ、メンタル的にしんどい博士課程を終えることはできなかった。もちろん学位というものはついてくるが、これらのつながりが一番の財産になった。

アメリカ会社員(現在)

サンディエゴや西海岸はある程度住んでいたので、次はヨーロッパかアメリカ東海岸で就職を考えた。バッテリーの研究ができればよかったので、会社の規模や立地もそこまで気にすることなく就活をし、運よくボストンでの仕事を得ることができた。アメリカの企業は怒鳴られたり怒られたりすることががないし、周りの人は親切にいろいろと教えてもらえるので、メンタル的にかなり楽になった。正直、日本での会社員生活よりも身体的かつ精神的にかなり楽。現在は、大学院時代の経験を活かして、次世代のバッテリーの材料を研究している。

今までを振り返って

日本では高校生から「やりたいことに合わせて大学を選べ」とか、大学では「就職を見据えて○○をやった方がいい」とか、会社に入ってからも「キャリア形成がうんぬんかんぬん」とかいろいろといわれると思うけど、そのときにやりたいことをやっているような適当な人生でもなんとかなっていますし、それで後悔してないです。将来について考えないのもよくないけど、考えすぎるのもよくないかなと思います。私はそこそこの「ランダム性」があったほうが楽しいので、あんまり決めすぎずに生きるようにしています。

自慢

・小学校から大学院博士まで、すべての教育を公立で終え、○立のパターンをほぼすべて制覇(小中:市立、高:県立、大:国立、修士:国立&王立、博士:州立)
・大学&大学院で通算12年、大学院だけで8年も在籍